88会報

下司病院の酒害相談員、北村幸彦が下司病院断酒自治会報、「88会報」のために書いたものです。

(内容は当時のもので、所属、肩書き等が現在と異なる方もおいでます。ご了承ください。)

※入院当時の「88会報」はこちらから

巡りあい 94号
木曜研修会1000回を迎えて 104号
院内喫茶エンドリ 138号
小野先生の例会出席 143号
例会へ出よう 145号
木曜研修会千五百回 146号
断酒通信から 148号
高校アルコール保健教育 149号
一町村に一例会場を作りたい 149号
23回目の入院記念日を迎えて 158号


巡りあい  94号  (1988.2)

一日の始まりが一杯の酒からであり、一日の終りが一杯の酒であった。すなわち一日中酒が切れては過ごせない体になってしまった日から苦しみが始まり、葛藤が始まった。

苦悩に沈み、もだえに流されて、溺死寸前に流れついたのが、今まで見たことも聞いたこともない異様な世界、それが下司病院断酒自治会というところでありました。

まだ死にたくないのに、死ななければ仕方のない現状、この酒止めない限り生きては行けないことだけは分かっているし、自力に及ばぬこともはっきり分かっている。だったらどうすればいいのかが分からないまま流されていたのだ。

漂着の翌朝、自治会会長よりいとも簡単に「酒はいくらもがいても一人では止められないから、会に出て仲間と一緒に止めていく様にしましょう・・・」と、朝礼から夜の例会まで院内で開かれている断酒会について説明をしてくれた。

会に参加するだけで本当に酒が止まるものだろうかと、半信半疑になりながらも、酒を止める方法をはっきりと言い切ってくれたことには、「ヨーシ!!」という思いが湧いた。会に出て酒が止まるのなら、いくらでも出ます、良いという事があるのならなんでもしますから教えて下さいと、心の中で本心つぶやいた。

止めたくてたまらんのに止まらない苦しみは、誰が理解してくれましょう、妻子や親兄弟にもこの土壇場の苦しみは分からないのに、会長は穏やかな顔をして、一人では止まらん酒も仲間と一緒なら止まると言い切る。この自信と落ち着きには、何かを引き付けられるものを感じた。自分を見抜いている人の様な、自分でも表現できない自分の急所を突かれたような変な近親感を感じた。

半ば、あきらめとやけの日を過ごしてきたが、急に明るいものを見た気が起きた。誘われて朝礼に出、振るえながら自己紹介をした、特別な緊張を覚えたが、これにすがりついて行こう、断酒出来るか出来んかは別として、やるべき方法が見つかったのだからうれしい、これが最期のチャンスかもしれん、やるしかないのだ、迷う余地は全くないのだ。
できることならもう少し生きていたい。

もう一度親子三人川という字で暮らしたい。

五四.七.一三 断酒会との巡りあい
                                             


木曜研修会(グループセラピー)1000回を迎えて   104号(1989.10)

木曜研修会は元グループ・セラピーといっていた。院内例会の始まりであり、その後も数ある例会の中心をなしている。

1000回といえば十九年余りの歴史である。当初のころのことを先輩方に聞いてみますに昭和四十五年ごろから、院内で開かれる断酒会の例会に、入院患者が参加するという形で始まり、木曜日に断酒会員と入院患者さんの合同例会の形に発展していった。会の司会進行は断酒会の人が交替で行っていたようです。

昭和五十年十月に、下司病院断酒自治会が発足し、初代会長にM氏が就任、院長の指導を受け「入院必携」を作り入院生活のルールを定めた。

グループ・セラピーを院内例会の中心に置き、テーマは院長が出す。司会進行は自治会長が行い、断酒会員やOBにも参加してもらおうという、自治会主導の例会として形作られ、定着した。

昭和五十四年十二月十三日、第500回記念例会が持たれた。

この時、M氏、S氏、O氏の三氏が院長表彰を受ける。M氏は例会出席できない為に、週一回の断酒通信を継続していること、S氏は仕事の許す限り全ての例会に出席していること、O氏は遠方から週二、三回の例会出席を続けていることで、自治会員の大きな励みとなり、模範となると云われた。

小生退院間もないころであり、この先輩のようになりたいと、心に誓ったことです。

600回、昭和五十六年十一月。700回、昭和五十八年十月。800回、昭和六十年九月。900回、昭和六十二年八月と回を重ねて、ここに1000回を迎えることができました。

この長い歴史を持つ木曜研修会を通過した人延べ三万人、ここを通って命拾いした人(小生もその一人)、家庭崩壊をのがれた人、離職もせずに済んだ人、等々、たくさんの人であろう。その反対にここを通りながらも力尽きた方も多くいます。

1000回の例会とはいろんな意味を持つと思う。それぞれに受け止めるものは違うと思うが、小生にとっての木曜研修会とは、断酒(命)の源である。
この会で甦り、第三の人生が始まったのです。だから1000回には殊の外、感慨を覚えるのです。

七月三十日、1000回記念集会を開催した。来賓、OB、家族、自治会と多数の出席を得、それぞれの立場から思いを込めての発表を聴かして頂いた。

感動に胸震わしながら、次の節目へ飛躍しようと連鎖握手で誓い合った。
                                             


院内喫茶エンドリ  138号 (1996.1)


今は亡きYさんの発案で、昭和五十九年十二月に院内喫茶「エンドリ」が誕生しました。

当時、退院して間もない南四国断酒会の会員や自治会OB達の六、七名が、毎朝の朝礼に参加した後、前の喫茶店に行き、コーヒーを飲みながら話し合っていました。
断酒に燃えているものたちの話は、高い調子になりがちなので、まわりのお客に迷惑を掛けてはいかんという気兼ねもあったようです。

又、毎日のことなので、経済的な負担もかかることから、Yさんがアイデアを出して院内喫茶を作ろうといい、皆が賛成して私の所へ相談に来ました。
無論私も賛成ですので、早速院長先生にお伺いをたてましたところ、先生も快く承諾下さり、数日後には「エンドリ」という愛称まで付けてくれました。

エンドリとは、酒からサンズイ(水の意味)を除くと酉(トリ)になる。酉は昔、中国では壺のような入れ物であった。
酉に穀物や水が入って酒にならないように、酉を輪(円)で囲む、すなわち円酉(エンドリ)というわけです。

開店して十一年が過ぎました。
時の流れの速さに驚きます。テレビの「ズームイン朝」で全国放送されたこともあります。高知新聞や朝日新聞にも載せていただきました。
雑誌社や医療関係者の訪問もありました。順調なスタートを切り、断酒憩いの場としての役目を果たしてきました。

運営は献金制として、ホールに箱を設置し、月末に開けて会計を報告しております。

最近は精神科で通院の方を主体とする月木クラブが出来、名前の通り、月曜日と木曜日は精神の患者さんを対象とした喫茶を開いていますので、エンドリは月木を除く全日となっています。
平日は朝八時から十二時まで、日曜日は朝八時から三十分くらいの時間帯です。

気楽に大体決まった時間に出てきて、決まった仲間と会い、一時を過ごし、治療を済まして帰る方、遠方から定期健診に来て、久しぶりに仲間と会い、コーヒーを飲みながら談笑して帰る方等がいます。
時には悩み、苦しみを打ち明ける方、それを真剣に聞き、励ましてくれる方、色々な話や姿に接し、生の断酒を肌で感じとろうと出てくる自治会の方がいます。

エンドリ喫茶の利用は様々ですが、少しでも多くの方に出てきてもらい、断酒の一助にしていただけたら幸いです。
                                             


小野先生の例会出席  143号 (1998.2)

十二月七日、日曜朝礼例会に「北四国アルコール問題研究所所長、豊岡台病院院長」小野昌也先生がお見えになり、会の最後で一言お話し下さった。

断酒会では
「断酒継続は足で稼いで肌で覚えよ」
とよく言われているが、これは学問的にも理にかなった事です。
断酒会は凄いと思います。
数限りない体験の結果、掴んだ答なのです。重みがあります。

人間の記憶には
一、認知記憶・・・理論を覚えること
二、手続き記憶・・体で覚えること。自転車に乗る事も理論的に覚えても実際には乗れないが転びながらも練習を重ねて乗れるようになったなら何年乗らなくても乗れるものです。

断酒も頭で考えただけでは出来ない。
例会にどんどん出ていって皆さんの体験を聞きながら一滴も飲んでいけない体に、巻き返し繰り返し言い聞かすことで断酒が出来るのです。
どうぞ断酒例会に参加して下さい。



    長い間ご指導いただいておりました小野昌也先生が、平成17年11月14日
    逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
                                        


例会へ出よう  145号 (1998.12)

最近、木曜(例会)研修会等への出席者が激減しています。
何故なのか、思い当たる節がなく、出てきて下さるのをじっと待っている状態です。
朝礼、朝礼例会、水曜例会は在院数から見て妥当な出席率と思っています。
それに較べて研修会、エンドリ同窓会、院内で行われている外部断酒会への出席者が格段に少ない。
何故でしょうか。

入院早々で、まだ出席できない人、内科的、精神的に安静休養の必要な人、風邪や怪我など突発的な病気の人、家族が来たり急に用事の出来た場合、外泊あるいは検査の準備にはいった場合など、出席できない理由のあることも十分理解しております。
無理に出よというのでは全くありません。

出れる状況の人は出て下さい。ずる休みはいけないということです。
例会出席は、点滴、注射、薬を飲むのと同じく大事な治療であることを忘れないで下さい。
体験発表するのが苦痛ですか、人の話を聞くのが嫌ですか、時間が長いのがしんどいですか、同じ事の繰り返しだから意義を感じないのでしょうか、出ない人が居るのでつられて出てこないというのでしょうか、、。

断酒例会とはそれ程面白いものではありません。
酒害の体験談はどなたの話を聞いても重苦しい息の詰まるようなことですが、これが事実ですので、これを避けては通ることは出来ません。
これを受け入れる気持ちになって、自分の酒害を語り続けることで、先輩の断酒体験が素直に聞けるようになってきます。
そこから自分の歩む道が見えてきます。希望と勇気を感じるようになります。
そこまで行って欲しい。
大事な大切なものを目の前に置いてみすみす取り逃がしてはもったいない。
大きな損失です。

入院して下さったからには治療は総て受け入れて頂きたい。
これからの人生がかかっている。
命がかかっている。それ程大事な入院です。
しんどくなったら退席してもいい。発表が苦痛な時は聞くだけでもいい。
治療の場へ出る気持ちが大事。

酒を止めて新しい人生を掴む気迫が大事、例会場へ足を運んで下さい。
ある断酒会の先輩は酒害者も幸になる権利があると、涙をながしながら発表しています。
皆さん、頑張りましょう。
幸せになろうではありませんか。
                                        


木曜研修会千五百回  146号 (1999.3)

千五百回と言っても数字の上ではただの通過点でしかないが、段落を付けるとするならば、五百回、千回、千五百回となるであろうことから、一つの節目と捉え、記念集会としました。

ゲストの方々の話、先輩方の体験談、共にとてもいい話でした。
いつもの会よりも心にしむものがありました。自分の気持ちに特別な会だという思いがあった勢いもあるからでしょう。

出席してくださった皆様には、それぞれの受け止め方、感じ方があったと思うが、何でもいい心の底に留めておけば、後日何かのきっかけで思い出すことが出来ます。

アルコール治療に必死に取り組んだ時のことを思い出せると言うことは、断酒の大きな糧(力)なのです。
くじけそうになったり、迷い心が起きたり、嫌気が差したりしたときに、真剣に取り組んだ時のことを思い起こせたら、きっと、自分を叱ってくれるだろう、もう一度原点に引き戻してくれるだろう、そんな力があるものと思います。

だから、少しでも多く思い出せる材料を貯えておいて欲しい。千五百回例会はそういう意味で、格好の材料であったと思う。

私にとっても、五百回、千回、千五百回と参加できたことはとても嬉しい、二十年もよく来れたと思う気持ちと、ここへ来るまでお世話して下さった方々への感謝の気持ちがこみ上げて来ます。
木曜研修会が私の原点であり、ここから全てが始まっているのです。

二千回へ向け、日々新たな気持ちで暮らしたい、今後ともよろしくお願いいたします。

                                        


断酒通信から 148号 (1999.8)

私が入院していた昭和五十四年当時、オービーのMさんから週に一度、断酒通信を頂きました。
断酒の心構えや実践方法など、ことこまかに書いてありました。
その幾つかを紹介しましょう。

一.朝晩の挨拶をきちんとしましょう。
一.断酒手帳は常に携帯しましょう。
一.例会場には、五分前に入りましょう。
一.断酒カレンダーを毎日めくりましょう。
一.身の回りを清潔にしましょう。
一.金銭出納簿を付けましょう。
一.今日一日の反省を日記に記しましょう。

その他沢山ありますが、今思い出すところだけ書き出しました。
当時、この定期便を待ちかねて読ましてもらい、必死に返事を書いたことを覚えています。
金銭出納と日記は今も続けています。
両方とも自分を振り返る材料になります。
飲酒時代に身に付けた悪い生活習慣をため直す為の道具です。
これは人に見せる目的のものではないので、嘘を書かないこと、続けなくては意味が無いので多く書かないことが、コツのように思います。
一つでも、二つでも、続けてやれるものを見つけて取り入れていただきたく思います。
悪い癖は直す努力が必要です。本元の酒癖を断つ為に枝葉の悪癖も取り除かないと支障をきたすことになるからです。
色々、教えて下さった先輩に改めて感謝する今日この頃です。
                                        


高校アルコール保健教育 〜 10.14 山田高校に出席して 149号 (1999.10)

十四日、山田高校では実際に酒害者から話を聞く、立体的な酒害教育が行われました。
断酒会員などの酒害者十一名がボランテイアで体験発表をするのです。
山田高校一年二組に川原先生と男十四名、女十七名の生徒が待っていました。
一、アルコール依存症はこんな病気ですと、断酒会で出てくる範 囲のことをまず五分話しました。
二、次に私がアルコール依存症になったと思われる要因を約五分間話しました。
三、そして酒害体験を二十分話しました。
四、上手な酒の飲み方について約五分で終わりました。

この後、無記名用紙で二十八通の質問を受け付けました。バッチテストの後で、全員に回答が出来ました。
「何故、酒が好きになったのか」「止めるとき、苦しくなかったか」「止めて幸せか」「飲みたくはないか」「アルコール依存症と何処で分かるのか」「止めるのにどうしたらよいですか」 「Oさんを知っていますか」との質問はお孫さんからでした。よく知っている友の会の会員さんです。
皆さんまじめに聞いてくれて有り難かったことです。
                                        


一町村に一例会場を作りたい  149号 (1999.10)

アルコール依存症の方が治療を受け、断酒に取り組む気持ちで退院しても、地域に断酒会が無く、定期的な例会出席が出来ない人がおられます。
誠に気の毒に思うと同時に申し訳なく思います。

三〇年余り前の人は、中村からバスを乗り継いで、二日がかりで高知の断酒会に出てきたそうです。
だからやろうと思えばやれんことはないと、今それを引き合いに出しても、それは少し強引すぎると思うのです。
何故なら、会のあるところと無いところが際だっているからです。
あるところでは出ようと思うなら毎日でも出られる仕組みになっているのに、県北部や県東部等、交通の瓶が悪い上に、近辺に会がないのですから不公平を感じるのです。

幸せになる権利が皆にあるのなら、平等に掴む仕組みがあってしかるべきと思うのです。
不便なために会につながれず、単独断酒に力つきて死んでいく人が現に居るから放ってはおかれないのです。
会の空白地帯を埋め合わせる努力は、保健所と断酒会や地域の協力を得て進めなければならないことと思う。
一町村一例会場が理想でしょう。(会を作るのは易いが維持していくのが難しいということも肝に銘じなければならないことだ。)
そうすれば、最低週一回の例会出席は、各人の努力の範囲内でいいことだろう。
それくらいのこと、出来なければ出来ない方が悪いと思う。

酒害者は甘えてはいけないが、酒害者に無理を強いてもいけない。
酒害者が助かる網をしっかり張って、一人でも多くの人が幸せになってもらいたい。
その為に私に出来ることはしていきたいと、思っています。
よろしくお願いします。
                                        


23回目の入院記念日を迎えて  158号 (2002.8)

昭和54年7月13日から10月31日迄、111日間の入院を振り返ってみよう。

知人宅で酔いつぶれて寝ている寝込みを襲われた格好で、明け方に母が来て「さあ、これから病院へ行くけに早う起きてきいや」と有無を言わさぬ見幕で車に乗せられた。
弟が運転をし、妹も乗っていた。
寝惚けて車に乗ったが、次第に目が醒めて来ると酒が欲しくなり、「車を止めえ、一杯飲ましてくれエ」とせがんだ。

車が病院に着いた

病院について今の旧館ホール、待合所で上半身裸で座った。
「シャツを着んといかん」
と母が手を合わすように、祈るように言ったが、「こんがに暑いのに裸で何故いかん、だれっちゃあに迷惑をかけよりャせん」と逆らった。
酒を止める力になるものならと坊主頭にしていたので、まわりから見たら異様な光景であったと思う。

診察が昼を跨いだ。昼食をとって来て下さいと言われて外へ出た。家族は連れて出たくなかったと思う。
病院近くの古びた食堂、現在は女性洋品店になっているところに入るなり、「ビールを飲ましてくれ」と無理は承知、母が困るのが分り切って言った。
「もう今日はやめてくれ、ここ迄来て飲むじゃ言いなや」と泣くように言われたが、「入院したらいよいよ酒ともお別れじゃ、一杯だけ飲ましてくれ、後へ後へは言わんから」 結局、母が折れた。
しっこくねだるということもあったろうか、絶対飲まさんと言ったら「そんなら帰る」と言い出すかもしれんという恐れがあったかと思う。
いずれにせよ母に苦渋の選択をせまったのだ。

そのビールを一口含んだら下から突き上げて来た。
飲めなかった。
いよいよ酒も受け付けん身体と分かった。
これで気持ちが落ち着いた。
「分かった、もうこれでええけに病院へ戻ろう」と云って、午後の診察を待ち入院した。

酒は1人では止められない

今の駐車場になっている所に民家があり、そこが3番館という病棟であった。
6名くらい入っていた。
暑いのと、酒が切れていくのと、どんな人達が居るのか、これからどんなことをさせられるのか、不安にかられながら、汗に浮いて寝苦しい一夜を明かした。

翌日Hさんが、誠に親切にアルコール治療のプログラムや、生活面のことを教えてくれた。
酒は1人では止められんから仲間と一緒に止めていくのです、そのために断酒会があるのです、会へ一生懸命出て下さいと説明を受けた。

驚いた。
酒はひとりでは止められないが、仲間と一緒なら止まるという事だ。
それなら、なんとか止めたいともがいたが止めれなかった、それは自分の根性無しの為と諦めていたが、そうではなかったのだと分かってホッとした。
止める方法があると教えられて、生きる希望を与えられたような、よし、やってやるという気持ちにさせられた。

本当に会に出るくらいで酒が止まるのか、今迄の思いは何んだったのか、という疑心も湧いたがそれは間もなく解消された。
会に出ていたら先輩達が会に来て体験を語ってくれる、その酒害は自分らとそう変わるものではないが、きちんと断酒して社会復帰している姿は紳士である。
会に一生懸命出ていれば酒は止まると云うまぎれもない証明である。

「よし、会に出よう、酒を止めるためにこうした方がいいよという事があれば、自分にかなう事なら何んでも取り入れよう、いいところは真似ていこう」と心に決めた。
やらなければ後がない。
命がないのだからやるしかない。
まだ死にたくない。
もう一度、立ち直って仕事に就き、家庭を修復し、自分の責任を果たしていかなければならない。
よし、必ず酒を止めてみせると逸る気持ちを覚えた。

入院して10日目、自治会の書記が居ないのでやってくれんかと云われ、私にできることならと引き受けた。
そして8月も引き続いて書記をした。
病院内で行われている例会には全て出席し、筆記した。
走り書きにしておいて後で清書するということは、手間のかかる事だが、人の話が2回頭に入ってくることなので勉強になった。
名前と顔を覚えた、一生懸命に書いたことは自己満足ではあるが良かったと思っている。

9月は自治会長をした。飲酒者が続出し、悩んだ。
自分の力の無さを痛感し、もう退院しようかと思ったこともあるが、ここで逃げては今迄の通りだ。ここを踏ん張らねば前に進まんと自分に鞭打った。
それからは一歩ひいて考えるより、一歩踏み込んで話し合う方向へ努力した。
院長先生から、自治会は「慰めあい、励ましあい、助け合い」の三愛主義でやってくれと説かれた。
自己反省を重ねながら、人の世話をする事が大切であると教えられた。

幻覚の人に付き添った

当時はちゃんとした保護室はなかったが、ほの暗い二畳くらいの防音室というのがあった。
幻覚気味の人はそこへ入ってもらい家族が付き添う仕組みであった。

入院して間もないMさん、同年杯の会社員、幻覚状態となり、そこに入ったが奥さんが脅えて1人では付添いが出来ないと云うことで私とHさんの二人が付き添うことになった。

初めて幻覚と云うものを見た。
びっくりした。
酒でこんなことになるのかと恐ろしく思った。完全に狂った状態ではないか、こんなになって元にもどるのだろうか。
仕事の事を云い、その仕草を必死にしている姿に無気味さを感じた。昼は自室で休んだが、二晩一睡もせずに付き添った。

その後にも幻覚気味の男性が入院して来た。年のいった父親が付き添っていた。奥さんは勤めをしていることもあって、付き添う状況になかった。
本人は頑強なスポーツマンであり、老父1人の手に負えるような事ではないので、この方にも二晩がかりの付添いをした。

その他にも例会場で二人が枕を並べて寝たこともある。

ある日の夕方、退院したばかりのNさんが顔面血だらけになって玄関口に倒れ込んだ。相当に酔っている。
先生が診て外科の処置がいるということで、竹下病院まで背負って走った。
この時は、飲酒していた仲間が付いて来た。
対応が遅いと怒り出し、困った。
抑えたり、お詫びを言ったりで怪我人そっちのけのこととなってしまった。

88会報も当時は自分達で編集し、印刷した。
これも初めての事で一生懸命やったことを覚えている。自分が手掛けた34号も保存されているので時々見て、初心に返る材料にしている。

111日間、本当に忙しい入院生活であった。一日一日がとても充実していた。
新しいことを感じ、新しいことを覚えた。
日々断酒意欲が高まり、気持ちが固まっていった。
先輩達との交流も深め、幅も広めた。土佐断酒会や県断連の合同例会にも出席した。

当時の病院は冷暖房もなく風呂もなかった。それが又よかった。屋上でホースを延ばして水浴をした。
先輩の真似することで尊敬をする方に少しでも近付けるように思えた。
私にとっては最高の入院だった。

一種の興奮状態か軽躁状態であったのかもしれない。
今とは時代が違う。医療法も生活水準も、ものの考え方も違うので今とは比較が出来ないが、素直な気持ちで必死に取り組む心は同じなはずだ。
何時迄も新鮮にしておきたい。

院長先生は別格だが、お世話になった中屋先生、片岡婦長の顔が浮かびます。
感謝しています。
                                             



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