88会報

下司病院の酒害相談員、北村幸彦が昭和54年下司病院に入院した当時、
断酒自治会報、「88会報」に載せた原稿です。

(内容は当時のもので、所属、肩書き等が現在と異なる方もおいでます。ご了承ください。)

入院一ヶ月の心境     33号
入院二ヶ月の心境    34号
インタビュー「私の酒歴」    35号
退院挨拶    36号



入院一ヶ月の心境  33号(1979年8月号)  210号室 北村幸彦

酒は百薬の長にあらず、百害の水なり。(自分には)
どうしてこの様な水に溺れ込んで行ったのかを思う。

生まれ持った性格が至らしめた業なのか、内観療法に見る自己中心主義に相当適合する処がある。
小心、内向的、依頼心・・・等々もやもやとくすぶりつづける心を酒にまぎらし続け、十余年の時を経た今は、自己制御が出来なくなり、酒が酒をよび、酒気漂わそうと、狂ったラジオの様にしゃべろうと、恥ずかしさを知らず、家族への迷惑も省みず、信用を失おうとも、その魔力には勝てず、酒に明暮れの日々を送って来た。

とうとうぬきさしならぬ立場に追い込まれ、当病院のお世話になる事となり、約一ヶ月がたちました。
先生、婦長、諸先輩の色々の話を聞き、そしてサマースクールに参加して、大変勉強させられた。

もう少し早く、せめて一年前に来ていたならばと、悔やまれる処です。
自分はアルコール中毒である事は、酒が無くては日が暮れなくなっていたその頃より分かっていたが、アル中を公表する事が怖く、又アル中の本当の恐ろしさと言うものを知っていなかった。それを知った今は、どうあっても酒をやめなければならないと、決意したのであります。

その難しさ、苦しさは、本当にその事態に当面した者でなければ分からないと思う。それは体験者発表でもよく分かる処である。

今の自分は、病院と言う特殊環境にあり、又周囲も同志の集いであるが故に、格別の抵抗もなく、消光しているが、退院後が正念場である。

自分は、アル中である事を自覚し、呑んではいけない、呑めない身体なのだと、常に言い聞かせ、極力危うきに近寄らず、常に心おだやかに保ち、肉体面でも、飢えや渇きを起こさぬ事に留意し、健康を維持して行かねばならんと思う。

これでは本物の断酒ではなく、呑みたいのを我慢しているに過ぎんと言われても、とにかく身体にアルコールを入れない事、逃げる事から始めなければならない。何の抵抗も無くなる迄には、遠い道の難であろう。

「身体をこわすから・・・人に迷惑をかけ、信用をなくするから・・・家庭が壊れるから・・・酒をひかえて・・・」と哀願するのも聞かず、呑み続けて今日に至ったのであるから、その報いは有ってしかるべきで、それには耐えなければならない、自業自得の果である。しょせん自分で償いをしなければならない、自分の意志より外ないのである。

なんと息巻いても自分一人では難しく、家族の協力を得なければならん処、大ではあるが、協力を強要するのではなく、自分からその体勢を作る事がまず第一である。それが為には、いつまでも今の気持ちを保持する事であり、それは常に同志との接触である。そうする事によって一番難しいと思われる安定した精神の持ち主になる様勉強努力する事である。

断酒は私にとって、人間改革である。一時はどうしてもいらいら腹立、あるいは変人的、少なくとも丸みのない人間に成りはしないかと心配である。

修養の不足である事は、言を持たないが、又その様な副作用の起こるようでは、断酒続行出来ないのかも知れない。酒をやめて、今までにない明るい家庭が甦ってき、周囲からも信用を回復して行けたなら、おのずから平和な心が芽生えて来るであろうか。
あまり凝り固まって無理な誓を立てても、続かぬ事であっても、大言壮語も、一つの煙幕ではあるまいか。
自分が自分を見えない糸で縛っておくのも、歯止め役となりはせんかと思い、友人、知人に暑中見舞いをかね、今後酒の呑めない身体となった事を知らしました。

あまりにも、この身を悲劇のヒロインにしていた事、酒を呑むには呑むだけの理由があったと理屈づけ、自分を弁護してきた、甘えた弱い人間である事を知った。この壁を突破しない限り、我が人生に、我が家庭に将来はない。
とにかく頑張ります。皆様宜しく頼みます。

男子志しを立て郷関を出ず
学もしならずんば死すとも帰ず  (好きな詩の一節 正に今の私の心境)


入院二ヵ月の心境  34号(1979年9月)  210号室 北村幸彦

前月号に入院一ヶ月の心境を書きましたが、が、それから一ヶ月経った現在の気持を綴ってみます。

まず、今苦しんでいる酒(この前までは一日たりとも自分より離れた事のない、最愛唯一の友?)を、

一.此処に至る迄何故呑み続けたのか、
二.其の為に生じた利害関係は・・・
三.如何なる迷惑をかけ、波紋を起こしたか、
四.それに如何に対処してきたか、
五.今後如何なる生き方をすべきなのか、
六.本当に償いは出来るものなのか、出来るとすればどうすべきなのか、

以上の様な事が、最近眠れぬせいか、夜毎浮かんでは消えて行く・・・

蛇足乍元来酒好きであった事、小学校五年の時、山の中で焼酎を取っているのを、手伝いに行った事がある。最初は中々出て来ないが、その内に点滴の様に落ち始める。
何気なくその酒をなめてみた。祖父が晩酌にしているのと違って水っぽい様で、からいとは思わなかった。母の目をごまかして呑む様な気持は全くなかったが、如何程か呑んだであろう。帰路よろよろして歩けなくなり、父に負われて帰った記憶がある。
一番取りは口当たりはいいが、きつい事を後で知った。これが覚え立ってからの呑み始めで、酔い始めである。しかられた記憶は無いので、酔っ払ってうわの空であったのだろう。

本格的に呑み始めたのは百姓に入ってからで、結い仕事の後では大量に呑み、語りあった。格別の娯楽も無く、自然のなり行きであったと思う。
それが、二十才の時に思いがけぬ心配事が降り湧き、自分の処理能力を余る難題であり、そのうっ積を酒にまぎらす事を覚えた。
問題の解決ない限り、うさは溜まる一方、従って酒は増す一方、休む事のない日を十年続けた。私の奔走の為ではない自然の長い時間が、この問題を有難くも解決して下さった。

こうなれば酒は必要ない身となった筈なのに、一向に酒量は減らず、増す一方、大義名分のない酒となったが・・・そこは如何様なりとも納得のいく理屈を考え出し、又呑みつつ自分に言い聞かせた。酒なしでは暮らせぬ身体(アル中)になってしまった。身体に良くないと言う事よりも、恥ずかしい事よりも、又銭金よりも呑みたいのが、先に立った。

過去十年の酒は、「百害あって一利なし」、全くの格言通り、何らかの点で損失、不都合があった。苦しいからと言って酒を呑んでも何も解決はしない。ただ自分を窮地に追い込むのみである。酔っていては人は事にしてくれない。酒につかの間の夢を求める事は、醒めて苦しみを倍味わう事になる。言ってはならぬ事を口走り、相手に不快を与えた。理由ない事で感情的になった。関係ない人を連れ歩き、男気を張って、あまたの金を使った。又返礼を受けては、呑む機会を作った。類は類を呼ぶで、溺れて行くと同時に取り巻きも同じくなって行った。

そうした堕落した人生の報いとして、身体をこわした。
とうとう医師より肝硬変と診断され、これ以上呑んでいたら死にますよと、妻を呼びつけて言い渡された。田舎より数々来て説教もされた。その時は殊勝な事を言って詫びたが、まだ帰りの汽車に乗らぬ内から金を盗み出し呑んだ。
自業自得で、説明の出来ぬ金は一切もらえなくなったので、金を盗る工夫を考えた。千円取ればバレるので、三〜四百円までである。トイレ等に行ったすきにさっと取り出し、百円玉を一個ずつ四つのポッケに分けて入れる。
音がしてバレるから・・・少し外気を吸って来ると言って出、ウイスキーを買って、五百メートル位の内に処分する。三回に一回位はバレて平謝り・・・もう呑みません・・・と誓約書も何枚も書いたことか・・・。

現金収入のない百姓ではやっていけないと、数百年も作ってきた田畑を荒らしてまで就職して行ったのに、酒に溺れた敗北者として、侘しい姿を再び田舎に晒す事となった。

このままではどうにもならん、酒をやめて、早く身体を治してと妻子は実家に帰った。母は過去の難儀な時代を泣く泣く暮らした。私がそれに奔走すればする程、私に対してまで気兼ねして苦しんだ。
一難去って又、難、今度は当の私のアル中に対して涙の乾く時がない日々を送っている時に、どこで、誰と、どれ程呑んだか、いくら借金したのか覚えず、気が付いたら道添いで寝ていた事があった。人の晒しものである。如何に人にさげすまれた事であろうか。それにも母は耐え、ゴネる私を当病院まで連れて来てくれたのであります。姉妹弟等も、酒をやめる様にと、あらゆる努力をしてくれている。それに口では、はいはいといい返事をしながら、その実、裏切り行為ばかりしてきた。家族に対して全く嘘でかためた毎日であった。

よくもここ迄見捨てずに来てくれたものだと有難く感謝し、又心から詫びている。
「酒で失敗うなよ、控えよ・・・」といいつつ世を隔ててしまった父に対しても、申し訳ないと毎日詫びています。
今迄の様な嘘は言いませんと、ごまかす事の出来ない自分が自分に対して誓っています。心髄から酒はやめたいのであります。

もう呑んではいけない、身体に駄目なのだし、人に迷惑をかけ、これから成人ささねばならない子供が有りながら、こんな醜態を晒してしてどうなるか・・・と自分をしかるのだが・・・又しても呑んでしまう。自分が自分をいやになった。真剣に死を考えた事もある。

今迄で一番の心痛は、先にも述べた直接ここに来るきっかけとなった六月十日から二週間二度の不埒である。
四月に帰郷してより控えていたのに、ついした事で大酒して不覚となり、道端で寝込んでいた時、大勢の人が見て通ったと言う。親切な人も有り、面白おかしい人も有り、田舎の事、このうわさは時暫時に広まり、直接、間接耳に入った。

母はとうとう寝込んだ。飯も食わなくなり、泣いていた。
「どうしてもええやめんかよ。このままじゃどうにもならん、どうせ死ぬるんじゃ・・・。呑んで人に笑われて、患らうて死ぬるんなら、女房子供には誠に済まんけんど早よう死んだのがましぞよ、一緒に死のぜや・・・。」とせがまれた。
これ程までに心配し、思ってくれる人がこの世の中に誰がいるだろうか。

いよいよ酒は呑まれん、ここが年貢の納め時である。これ以上呑む事は自殺行為であり、他殺者ともなろう、それも近親殺人である。
呑んだ事によって起こったこの苦しみを、この不都合を、この迷惑を、この損失を思えば、今後如何になすべきか、当然答えは出てくる。今はただ、この反省を踏まえ、断酒する事のみである。

私一人が人の出来ない特殊な事をしようと言うのではない。数々の先輩がやっている事を、まねて行こうとするのである。出来ない事はないはずだ。いや、やらねばならないのだ。断酒しなければ生きて行けないのだ。
深く心に刻んで忘れまい。
可愛い子供の為に生きなければならない。
もうこれ以上罪を重ねてはならない。
自分を中心として、取り巻く周囲皆んなの為にやろう。
男なら性根のある者ならふんばろう。
親子三人早く川と言う字で暮らしたい。

今は亡き父の手紙の中より、

『 うさを晴らし疲れをいやす盃も
  ほどほどに酌め家や身のため 』


入院患者に聞く「私の酒歴」  35号(1979年10月)  210号室 北村幸彦

―飲み始めと動機は
本格的に飲み始めたのは、高校を出て農業をし出した時ですから十八歳です。酒が好きだったのでしょう。何の抵抗もなかったですね。酔った快さが何とも言えませんでした。
当時は晩酌はしませんでしたが、結い仕事、つまり手間替えの後、友達といっしょに飲んだんですよ。学校を済んだのは三十七年ですが、田舎のことなので娯楽も遊びもなく、高知市へ出て来るにも片道二時間半もかかるし、友達同志結い仕事をしあってはその後で飲みました。それが二十歳すぎには一人でも飲まにゃいかんようになりました。三合くらいですがね。

―そのうちに量も増えたでしょう

もともと酒が好きだったのへ、家のトラブルがあって、その心配と自分の思う事がうまく行かないいらいらも重なって、酒でまぎらすようになりました。多い時は一升瓶を平らげました。

―一番酒にひたったのは
二十四、五歳だったと思いますが、体力もあったので、二升ほど飲んだ時もあったでしょう。

―就職もしたようですが
休耕問題が起きたので、農業では食って行けないと考え、現金収入の道を求めて四十六年に大阪の会社へ入りました。食品関係の総合卸問屋でしたが、仕事は楽しかったですね。その当時も晩酌は切らしませんでした。給料をもらったら一升瓶十本入りを買い、毎晩五合平均やっていたし、友達づき合いで飲むのも多くなりました。広島、岡山の営業所へ転勤になりましたが、五十年ごろからは、日曜日には朝も昼も酒に手をつけるようになりました。

―肝硬変になったのは
五十一年に同郷の人と結婚しましたが、五十三年から二日酔いの時には朝酒をやるようになりました。晩酌三合は女房公認でしたが、それでは物足りず、ウイスキーのポケット瓶を樋へ隠しておったり、子供を抱いて外に出ては飲んだりしました。結局、昨年七月に岡山の医院へ入院、肝硬変と診断されたわけです。黄疸症状や腹水が溜まるなど大変でした。始めの一ヶ月は真面目に養生しましたが、ちょっと調子が良くなったので先生や女房をごまかしてはウイスキーを飲みながら、二ヶ月で退院しました。退院後も注射には通ったのですが、治り切っていなかったようです。

―その後は
職場に復帰しても、酒の量は増える一方でした。友達が、酒よりはウイスキーがいいというので、量も少なくて済むと思って変えました。その時はもう、うまいというよりも酔った快感を味わうようになっていました。始めはポケット瓶でよかったのが、何時の間にか四、五本に増えていました。

―再び体調が悪くなったのは
今年の二月で、メシは食えなくなるし、体の衰えが著しくなりました。身長一b八二aで、体重は八十五`あったのが七十三`に減り、最後は六十九`に痩せました。医者に相当悪いと言われ、これ以上会社に迷惑をかけられないと考え、三月に退社して郷里の豊永に帰りました。田舎のことなので「酒を飲みすぎて帰ってきた」と、すぐに隣近所へ知れ渡るし、家内も「酒をやめるまで」といって、長男を連れて実家へ帰りました。

体力回復の為に帰郷したのに、それでも酒はようやめんし、毎週月曜日に高知の病院へ通院しながら、治療を受けた後で飲みました。通院するにも信用されてなかったので、母か妹が同行して警されましたが、「切符を買いに行く」とか「トイレに行く」とかだましてポケット瓶を二本買い、一本はトイレの中で、一本は汽車のデッキなどでこっそり飲みました。しかし、飲めば口が軽くなるのでどうしてもバレるんですね。随分母に叱られましたが、母の言葉も耳に入りませんでした。

―下司病院へ入院したきっかけは
母が酒が嫌いになる薬があると聞いてきて、五月二十日ごろN先生の診察を受け、Sケースワーカーの話も聞きましたが、その時「そんな薬はないので、自分がやめようという決意が必要です」と言われました。断酒に関する書類なんかもらって帰ったんですが、全然読まなかったし、病院に「断酒道場入口」と書いてあるのにも抵抗を感じました。

週一回飲む程度になってきたので、体重も七十八`まで回復し、精神的にも落ち着いてきて、入院する気にはなれませんでした。これで節酒できたし、順調に行っていると思い、女房、子供も帰ってくれてもよいと身勝手な考えで交渉しましたが、「一回飲んだら一ヶ月ずつ延期」と拒否されました。それで、高知へ出て三日三晩飲むのを二回続けてダウンしました。それでも、これで飲み納めと、ポケット瓶一本と酒を三合飲み、母と妹に連れられて入院したわけです。その時、婦長さんにもかなりからんだようです。

―もう三ヶ月になりますね
この病院に入って助けられました。過去を振り返って、これまで家族や社会に迷惑をかけたことを深く反省しています。退院も近いと思いますが、ここで勉強したことを心に刻み込んで断酒を続け、早くなごやかな楽しい家庭を築きたいと願っています。


退院挨拶  36号(1979年11月)  210号室 北村幸彦

私の百十日間にわたる入院に当たりましては、院長先生をはじめとして、副院長、婦長、看護婦さん方の誠心誠意なる治療を頂戴し、また自治会先輩の皆様からは、熱意あふれるご教導を得まして、本日ここに退院の運びとなりました事、誠に有難く御礼申し上げます。

私は下司病院のお世話になる事によって、九死に一生を得ました。私の命の恩人である皆様方に対しまして、深く感謝しております。入院当日のあの醜態を、今は恥ずかしく思うと共に、十数年来の飲酒生活から脱皮する為の、最後のあがきであったかのように感じております。かけた無礼をお詫びすると同時に、この巡り合わせを幸運に思っています。入院中に学んだ事は、これから私が生きていく為に欠く事のできない断酒道への基本であったと思います。おぼろげながらにも、その骨子の幾等かを掴む事ができました。

これを生かすも殺すも、これからの私の心がけ一つにかかって参りました。それが為には、お受けしたご恩に報いる事であり、それは栄養を充分吸収して、学んだこの骨組を完成させ、肉を付け、服を着て、どこに出ても恥ずかしく断酒人となる事です。

燃える闘志を胸に秘めて「怠けず焦らず」をモットーに、断酒の道に入りたいと存じます。今後とも何分のご指導をよろしくお願い致します。

今日のこの純粋な一念をたがえぬ事をここに誓い、断酒自治会の益々の発展を祈願して退院の挨拶と致します。有難うございました。

                        (昭和五十四年十月三十一日 退院)